昭和56年12月23日   朝の御理解

                    
  御理解第89節                    
 「此方の道は傘一本で開く事が出来る」     
 

 今日御神前で『女の人が薙刀を使っておる、ところがその薙刀があまりに見事な薙刀でそんそれが重たい、使いこなしきらんでおる』と言うような所を頂いたんですけどね。
 そしてまあ今日の御理解、此方の道は傘一本で開く事が出来ると言う事とどう言うふうなつながりがあるのか分かりませんけれども、例えばそんならそれをね。一振りの名刀、そいが正宗と言うような立派な刀であるとしてもいいです。
 とんなにそれが名刀だ、正宗だと言うても使う人が腕がなかったらね。そんな正宗も値打ちがないと言うこと。持つ人によって値打ちが出てくるのである。どんなに素晴らしい薙刀があっても、それが重たい位ではそれこそそれを自由に使いこなす事は出来ません。 昨日おかげを頂きまして、古川が退院してまいりました。沢山な人のお祈り添えを頂いて二百何十日間病院におったそうです。おかげで退院が出けました。それで兄弟皆集まって一緒に晩餐を致しました。あとでまあ結局話は信心話ばかりでございますが、そこで今度本部から「読信」と言う素晴らしい、それこそ権威のあると言うか、素晴らしい御本が出ておりまして教会にそれを頂くんです。
 それをこの頃頂いて、私は読めませんから読みもしませんが、若先生が読んで見てから、もう驚いてしまうと言うんですね。もうこの頃は合楽の信心を語っていると。合楽とは言わずだけである。
 もう親先生が言いよんなさるような事を言うておる、書いておる。例えばここでは人間がね。生神の性を持っておると言う事はね。例えばあの柿の種が一つ二つに切ってもね、中にはもうちゃんと柿の種が恵んでおろうがてね。
 だからいかにその柿の種が恵んでおるからと言うて、それをそのまま畳の上んでも置いとったぶんぢゃ柿の芽は生えきらないように人間が生まれる時に、生神の芽と言うものを頂いておってもね。それを放任していったら、それこそ人間以下のとでも言うかね。人間のツラしとるだけでと言う様な事にさえ、言うならなりはててしまうのが普通であるね。
 ここにお互いが目覚めさしてもろうて、その生神の芽をいよいよ大事にしていく、言うならば柿の種をお土のお恵みね。または御陽気のおかげ、水分のおかげと言ういろんなものがそこに条件が足ろうて、初めて柿の芽をきるように信心もそうである。生神の芽を持っておると言うても様々な条件が足ろうわなければ生神の芽は出ないんだと言う様な事を皆さんはね、繰り返し聞いとられるでしょう。 ところがその本には何ち書いちゃるかと言うとね。例えばその大根の芽でもち書いちゃる、大根の種、まあ皆で大笑いしましたけど。大根でん勿論芽はあろうばってん、そげん合楽では柿の種と言われるといやあどこんどうあるぢゃろかとまあ思いますけどね。    けれども私思いました。もう最近例えば合楽で言われるあの実験実証をと言ったような言葉が本部でも偉い先生方のお話の中に出てくるんですね。けども、これは偽者が出てくるんですけれども偽者が出て来ると言う事は、これは本当なものであると言う事でしょうが。だから私共はいわゆる合楽の信心が合楽理念がいかに本当なものか、素晴らしいものかと言う事を実験実証もってだけではなくてですね。もう観念の上にも合楽理念が素晴らしいと言う事が頂けて分からなければいけないと言う事であります。  私は人ん真似をこの頃もある教会の記念祭に厚い本が出ておりました。それを読ませて頂いたらまるっきり私がお話をしとるような合楽で言ういろんな御教えがもういっぱい、自分が神様から頂いたかのようにして一冊の本が出けてるんです。この頃それを見せて頂きましてね。そん時はそんなに思わなかったけども、昨日は若先生のお話を聞かせて頂いとって有難い事だなあと。
 合楽の信心は本当のものと裏付けして下さってるようなもんだとね。そこでほんなら皆さんとしては本当なものだと言う事を先ず信じて下さらなければならないし、又実験実証していかなければならない。だからどんなに本当なものであってもです。言わばね、と言う事を合楽理念をもっておる、知っておると言うだけではね。
 それを行じる事がおっくうなような事では言うなら素晴らしい薙刀をもっておるけれども、それが重たい位で使いこなしが出けんでおる姿ではなかろうかと思うのですね。どんなに素晴らしいそれが名刀だ、正宗だと言うてもそれを使いこなしきらんかったらね。
 本気でいよいよもって合楽理念もこれに極まったと人間の幸福ぢゃない、この世あの世を通して間違いのない信心であり、この信心によって信心の徳を受けて、まああの世にも持っていけこの世にも残しておけると言われるそれを本当にそう言うふうに頂いき表していこうと言う願いを各々が立てなければならん。頂いたおかげはもっていかれん。頂いた信心だけなんだ、持っていけるのは、頂いた御神徳だけなんだ、持っていけるのは、残して置けるのも又同じ事なんだ。
 私はこの此方の道は傘一本で開ける道と言うのは、私はそう言う事だと思うんですね。だから合楽理念をもって道を開く事が出けるのだけども合楽理念の言うならばを自由自在に使いこなせれるおかげを頂いた時が傘一本だと思います。そこから生まれてくる確信、同時に安心ね。そう言う様なものがいわゆる道を開いていく根本になるのですね。
 自分が助かる事によっていわゆる人も助かる。自他共に助かっていくと言うほどしのおかげを頂く為にはね。その傘一本がどうでも頂けなきゃならない。私共がいわば一本の頂いとるその傘が破れてはおらないか。さしてもいざと言う時には役に立たんような事ではなかろうか。頂いておる本当ないわゆる名刀と思われるような刀を頂いとっても薙刀を持っておってもね。
 それを言うならば使いこなしも、それがむしろ重たい位な事ではね。本当な事にはなってこないように。今朝から頂いたのはあのこれはまあ合楽の皆さんの場合、素晴らしい薙刀を頂いておるんだけども、それがまだかかえるのに重たい位な所ぢゃなかろうか。
 為にはま少し力を頂かなきゃならん又それを自由自在に振り回せれるような一つ技と言うかね、力も頂きたいもんだと思う。そう言う力をここでは私は傘一本で開く事が出来るね。いわゆる金光様を信心すりゃどこででも道は開けると言う事ぢゃない、金光様の信心によって力を頂いたら安心のおかげ、神様を信じて疑わない確信が出けるようになったら、それによって開く事が出来るとも教えてられると言うふうに思います。
 まあ昨日若先生のお話を聞きながら、偽者がまあ出ておる、出回っておると言う事は言うならば合楽の信心がそれだけ本当なものだと言う事なんですね。又事実それをなら実験実証して行きながら力を頂いて行くわけですけれどもね。
 いよいよもつて私はその自由自在なもうどんな場合であっても合楽理念に基づく生き方をね。身に付けていかなきゃならんと思うです。「どうぞ」